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愛と涙と感動物語・団員の声

藤原 和寛

淡路酒探偵団の思い出
私は今年で50歳になります。今は京田辺市に住んでいますが、阪神淡路大震災の翌年までは尼崎に住んでおり、2人の子供も小学校だったので、年に4・5回淡路島の自然の中、海や公園に親子4人で弁当を持って遊びに行っていたものでした。
酒探偵団との出会いは、ちょうど14年前の1991年7月:海水浴のつもりで、やはり弁当を持って海に出かけ、今日はどこの海岸に行こうかなと車で走っていたところ、地引網(とれとれ乾杯)の案内があったので参加することにし、取れたての魚と飲み放題のお酒(当時1パイ1000円ぐらいしていた越の寒梅をコップに3杯くらい飲ませてもらいました。魚もお酒も本当においしかった。)で大変有意義な一日を過ごさせてもらったことから始まりました。
その後は時々、珍しいお酒の案内をいただいて頼んだりしていましたが、あの震災の年の「千夢酔の誕生お祝い会」に案内をいただき、淡路酒探偵団のことや千夢酔の誕生までの色んな事をほとんど知らずに子供連れで参加させていただいたことが大変感動しました。
その後、「米酒サミット98in淡路島」に参加し〈淡路島の自然や文化〉について夜みんなで意見を出し合ったこと、「河島英五ほろ酔いコンサート」での野風増が今我が家の現実(2人の息子が20歳過ぎになって)になっていること、「田植え」や「初絞り」にも何度か参加させていただき、我が家でのライフサイクルのひとつになっています。
この「淡路酒探偵団」との出会いのおかげで、私や家族の中にたくさんの感動や思い出が残り大変感謝しています。
営利団体でない集団がこんなに情熱とエネルギーを費やし、いろんなアイデアを出し、実行されてきたことは本当に大変なことだったと思います。高田さんをはじめたくさんの方々の並々ならぬ努力に本当に感謝するとともに敬意を表するしだいです。
これからも、「淡路酒探偵団」の活動が今度とも末永く続き、「淡路の自然や文化」が将来に受け継がれて行くことを強く期待しています。
そして、私も少しでも参加させていただけたらと思っています。

野村 純弘

「酒探偵団」の活動記録を拝見して、あれもこれもと懐かしさが昨日のようによみがえってきております。
はや16年になるのですね、随分ご無沙汰してしまい、本当にごめんなさい。
貴会、結成の頃は淡路文化協会との協力関係が深く、当時の小倉会長が「酒」の文化をこよなく愛し、磯崎君たちとも協力して数々の勉強会「フォーラム」や楽しいイベントに参加させてもらいました。
特に11年前のあの阪神・淡路大震災で酒の倉庫を全壊された事務局長の高田佐登美さんには 被災にめげず、これをバネとして 地酒「千夢酔」を復興のシンボルとして全国にアッピールされ また、3年後の「第三回 米酒サミット98in淡路島」開催は元気な淡路島を示す、感動的なイベントでした。
生来、アルコールに弱いDNAの持ち主の僕にとって「酒」は苦手でしたが、この会に出会って「ほろ酔い」の世界の楽しさや 淡路島の酒文化や歴史について 沢山学ぶチャンスをいただきました。
省みて「継続は力なり」の言葉の重みを痛感している次第です。どうかこれからも島も文化くらしの発展のために、結成20年にむけて頑張ってくださいますようお願いし、あわせて 貴会のご隆昌を心から祈念しお祝い申し上げます。

岡田 清隆

淡路・酒探偵団の活動が多くの方々に支えられ、既に16年目を迎えていることに「ええ!そんなにもなるの?」と「よくぞここまで続けてこられたものだ?」の思いがわいてくる。
1990年の淡路・酒探偵団の誕生の経緯については、淡路の陶芸家、故小倉圓平(淡路・酒探偵団名誉団長)氏より伺っていた。小生は1993年の「フランスワインと日本酒を通して文化交流を考えよう!」に正式参加させていただいたのが、淡路・酒探偵団の活動への初参加である。
1968年から淡路島の自然環境の保全には強い関心があり、島の自然環境調査をスタートしていた。淡路島の北部は常隆寺山を主峰とした津名丘陵地帯、中部は三原平野、洲本平野の低地、南部は諭鶴羽山など500〜600mの山地の大きく3つに分かれている。更に島の風土資産として紀淡海峡、鳴門海峡、明石海峡と3つの海峡を持ち、気候は瀬戸内海性気候に属し夏は高温多湿、冬は温暖で雨量が少なく、約2万ヶ所余のため池により古くから稲作を中心にした農業と酪農そして沿岸漁業が営まれ、「食」に恵まれてきた。
しかし、近年この「食」を生む島である淡路島が経済のしくみ、様々な施策の変遷、物流システムの著しい変化、第1次産業の後継者不足等のさまざまな要因により、このままでは「淡路島の経済・生活活動がうまく循環していかないのではないか」と危惧されるようになって来た。
そこで、何とかして持続可能な島づくりをしなければと仲間と議論している中で、淡路・酒探偵団が「淡路の棚田で、淡路の在来種の稲を、淡路の水と太陽で栽培し、それを淡路の酒蔵で醸造しょう!」と賛同者を募ることになった。淡路の飯米品種「あじまる」を用い、「モミ蒔き・田植え・稲刈り」そして醸造の真っ最中に体験した阪神・淡路大震災を経て誕生した手づくり第1号の地酒が純米大吟醸「千夢酔」である。正に復興のシンボル的な稀有な誕生の歴史をもつ地酒である。
 1994年、淡路の米で、淡路の水で、淡路島にさんさんと降り注ぐ太陽のもと、人一倍淡路島を愛する思いを込めてこだわりの酒造り体験を開始したのは、北淡町仁井小田の棚田。参加者の殆どがもみ蒔き、田植え等から始まる稲作は初体験であった。小雨の中、泥んこになって手で田植えをしたあとの炊き出しおにぎり、おでんの味は今でも忘れられない。
 1995年、いよいよ淡路島の飯米用在来品種である「あじまる」の醸造に取りかかろうとしていたその直前、あの未曾有の阪神・淡路大震災に遭遇してしまった。醸造を依頼していた淡路市東浦(旧東浦町)の千年一酒造の酒蔵は、屋根は崩落し青天井、柱は揺れ戻しによって東西に折り重なるように倒壊していた。直後の現場は「もう酒の醸造は不可能だ!」と誰しも思ったに違いない。しかし、千年一酒造の蔵主、丹波杜氏を始めとする関係者の強い思いが結集し、唯一全壊を免れた十畳ほどの酒蔵の空間を使って醸造が開始された。忘れもしない寒風の吹きすさぶ1995年1月22日であった。
 1995年2月22日午前10時、唯一残された千年一酒造の醸造蔵は、初しぼりの瞬間、「千夢酔」の誕生を今か今かと待ち望んだ関係者で足の踏み場もないくらいになっていた。故小倉圓平「淡路・酒探偵団」名誉団長が、梯子を使って上った醸造タンクから最初の柄杓で誕生間もない新酒「千夢酔」をくみ上げ、参加者の湯のみコップに注ぎ分けた。あとは誕生の喜びが爆発するような歓声のもと、万歳!万歳!の連呼であった。筋交いのワイヤーに支えられた酒蔵は、ふくよかな新酒の香りに包まれ、大震災直後にも関わらず駆けつけた多くの人々の胸に淡路島復興に向けた熱い思いを誕生させた。
 1998年の9月に開催された「第3回米酒サミット98in淡路島」には、全国より300余名の参加者を得た。会場となった千年一酒造および学習小学校は、阪神・淡路大震災の復興に取り組んでいる淡路島を応援しようとする方々で埋め尽くされた。ホスト役の「淡路・酒探偵団」は、同じNPO活動に取り組んでいる淡路島のメンバーに加え、阪神間を中心に活躍している多くの仲間が駆けつけ、裏方さんとして献身的なサポートをしてくれた。これらのご恩を決して忘れることはない。
 1999年には、好適酒米「五百万石」を淡路島で初めて栽培することになった。その適地は、北淡町生田大坪の小高い丘陵地の頂上にある棚田であった。「ため池の天水を100%灌漑し、有機農法で五百万石を栽培しよう」というものであった。地主である原下氏宅に夜遅く故小倉圓平氏とともに数名の世話役が押しかけ、「自律した地域作り」「有機栽培による本物の酒米作り」「棚田の保全の大切さ」等、それぞれの熱い思いを伝え淡路初の栽培田として協力して頂けるように説得した。後日、「それでは、息子を説得してやってみよう!」という快諾の返事を頂いた。この受け入れは本当にありがたかった。前年まで飯米品種「日本晴れ」などを化学農薬や化学肥料を散布・施肥しながらながきに亘り使ってきた田圃である。1年目は、「稗」「ノビル」などの雑草が稲の間に多く出現し、稲田管理の原下さんには多大の苦労をかけた。しかし、3年を過ぎると、カエル、オタマジャクシ、イモリ、トンボのヤゴ、カマキリ、クモ等、様々な小動物や昆虫達が多数出現して来た。正に我々の目指してきた自然生態系の回復が徐々に見られるようになって来た。阪神間からやってきた子供づれの家族にとっては、泥んこになりながら新鮮な体験として受け入れられた。
大災害に打ち勝って誕生した「千夢酔」は、その後何度か継続の危機を迎えたが、多くの関係者の適切なサポートを得て、苦難を無事乗り越えてきている。これからも、「次世代への環境教育の場」「持続可能な21世紀型の地域づくり」のシンボルとして、淡路島にその灯をともし続け、全国にホットな情報を「魚稲の国・淡路島」の産物と共に発信していくに違いない。ブラボー「千夢酔」!

千年一酒造代表取締役 社長 武田 洋志

 12年前、『淡路酒探偵団』の皆様が「自分たちの作ったお米で自分たちのお酒を造りたい」とその想いを熱く強く語られ、感動し共鳴したのを今も思い出されます。
お米をお預かりして間もなく、あの未曾有の阪神淡路大震災に見舞われたのです。
大きな地鳴りと共に家全体を空に放り上げられたかなと思い、すごい勢いで地面にたたきつけられる状態が何度も繰り返されたことか!
仕込蔵の瓦という瓦はほとんど ずり落ち、青天井に近く 何本もの柱が折れ重なり、仕込タンクは傾き、造ったばかりの新酒が水のように流されてしまい恐怖のどん底に突き落とされました。
放心状態になっていた時『淡路酒探偵団』の団員の皆様が「大丈夫だった?」「誰もけがはなかった?」と駆けつけてくれました。そして熱い思いを込めたお米の無事に、手を取合って喜ぶ姿を見て「何としても良いお酒にしなければ!」と酒造りを続けるかどうか迷っていた気持ちから私たちを立ち上がらせてくれました。
急遽 仕込蔵の大補強を行い、大変作業のしづらい中 田淵徳衛門杜氏らが一丸となって、万感の思いを込めて醸し上げたのが《千夢酔》でした。
《千夢酔》のお陰で仕込蔵を建て直す勇気をもらいました。その後、〔復興一番酒造編〕では皆様に集まっていただき盛大にお祝いをしていただきました。心底からうれしくて、涙したのをいつも思い返します。
その時に祝杯をあげた 故 小倉圓平団長(陶芸家)作の大酒盃は私ども千年一酒造の宝です。
ありがとう淡路酒探偵団の皆様。

高瀬 斉(たかせ・ひとし)漫画家/淡路酒探偵団・関東地区応援団長

小生が淡路島にお邪魔したのが1993年の秋、元気のいいオバちゃんに出迎えてもらったことが思い出されます。
当時、ようやく地酒というものに目が向けられてきたとはいえ、まだまだ、ただ安く酔えばいいというお酒にしか目をむけていないお店や消費者が多かった時代に、美味しい日本酒を探して皆さんに飲んでもらおう、本物志向でお客に向かおうという酒屋さんが淡路島に現れたということは、正直言って驚きでした。
その後の阪神淡路大震災という未曾有の出来事を経たわけですが、その大事件までも笑顔で吹き飛ばすほどのパワーで「千夢酔」を誕生させた淡路酒探偵団の皆さんには頭が下がるばかりです。
その「千夢酔」の誕生発表会にもお声を掛けていただき楽しませていただきました。応援団長として、たいいしたことも出来ないままで来ましたが、高田佐登美さんの持つ大きな笑顔がこれからも淡路パワー酒探偵団を大きく発展させていくことでしょう。
ますますのご発展をお祈りいたします。

露の団六(つゆの だんろく)落語家/淡路酒探偵団・関西地区応援団長

15年前、ラジオ関西で夕方の番組を担当しておりました。ゲストに来られたのが淡路酒探偵団の御一行。
よくある話で、自分たちで米作りから、そして、地元の水でおいしいお酒。「はあ、どこですの? 淡路です、大阪の?いえ、淡路島。」聞けば代表のおばちゃんは高田佐登美さんで、室津の酒屋さん。はあ?
私の義母の実家の目の前である。子供を連れて夏になると泳ぎに行く、海水浴場にはテトラポットもなく、遠浅で、沈んでいくお日様をそのまんま見られる。絶対に誰にも教えたくない、プライベートビーチのあの室津の酒屋の高田さん?私は淡路には血縁関係は無い。妻と息子、娘には淡路の血が流れている。けれども、私は大きい顔をして漁師の叔父の家に勝手に入り込んでいる。他人の私を叔父夫婦も含めて誰もが親戚として挨拶をしてくれる。おばあさんは亡くなる前、あんた大きなったのう。「誰と結婚したんじゃ」と、おっしゃった。あんたの孫やで、違う、あんたが孫や。わはは。淡路が好きなのです。
そんな淡路の「千夢酔」が、淡路の人だけじゃなく、色んなところの人たちが参加して15年。震災で、それぞれの被害を乗り越えながら15年。このお酒はねえ、絶対に淡路で飲んで。タコとイカナゴとおにぎりをあてにして、夕日を見ながら。ああ、もうどうでもして、そんなお酒なんです。ああ、また淡路に「帰り」たくなってきた。

琵琶工房やまのべ
野口白童・大藪旭晶

「バス停に着くとそこには十数年来の友人・魚井さんが待ち受けておられました。会場の千年一酒造さんの近くまで来ると、お酒の香りが漂ってきます。
千年一酒造さんの暖簾をくぐって始めて、長身の男性が落語家の露の団六師である事を知りました。同じバスに揺られてきたとはつゆ知らず・・・。
既に初絞り、ビン詰めなどの作業が進み大勢の皆さんが楽しげに、一升瓶を手に歓声を上げておられる。淡路酒探偵団15周年、千夢酔10周年のダブル記念プレイベントに、演奏の機会を頂いたのも魚井さんとのご縁のおかげ。
予め魚井さんより頂いていた新聞記事の通り、代表の高田さんは溌剌としたパワフルな肝っ玉お姉さんでした。
お酒まつわる数々の展示品が並んだサロンには、たくさんの座布団。
演奏後の懇親会では、あちこちで語り合う話し声が聞こえ、私達も多くの方とお話が出来、和やかな中にも、震災後に皆様が逞しく歩んで来られた様子が、感じられました。また露の団六師の著書にサインを頂き帰宅後に読み感銘を受けた事も、ついこの間のことのように思い出されます。
貴酒探偵団、千夢酔の歴史のひとこまに、琵琶演奏を加えて頂き、あらためて皆さまに感謝いたします。そして皆さまのこの活動が、いつまでも続けられますよう、祈念いたしております。」

東京都   小此木良子

川崎から都内に転居致しました。
「多摩の第九」の仲間と蔵を見学させていただいた事。
打ち上げで飲んだ千夢酔の美味しかった事など想い出します。
17年目に入った「酒探偵団」の益々のご発展を祈ってます!